大谷翔平の高校は花巻東!甲子園2度出場、160キロとプロ入りまでの歩み

山を背景に野球場のマウンドに立つ選手と目標シートのイラスト

大谷翔平選手の高校時代は、どんなものだったのでしょうか。投手として速球を投げ、打者としても大きな一発を放つ姿は、高校野球の舞台でも注目されていました。

大谷選手の出身高校は岩手県の花巻東高校。甲子園には2度出場し、高校3年の夏には岩手大会で160キロを記録しました。

ただし、160キロを投げた試合と甲子園での試合は別です。この記事では、出場大会や対戦相手、目標達成シート、卒業後の進路を時系列で整理します。

大谷翔平の高校は岩手県の花巻東高校

大谷選手は岩手県の花巻東高校で野球を続けました。侍ジャパン公式サイトによると、高校時代は1年生からベンチ入りし、投手と打者の両方で力を見せていました。出典:侍ジャパン公式・花巻東時代の紹介

時期出来事
高校1年ベンチ入りし、投打で活躍
高校2年夏夏の甲子園に出場、150キロを記録
高校3年春選抜大会で大阪桐蔭と対戦
高校3年夏岩手大会準決勝で160キロ、決勝で敗退
2012年秋メジャー挑戦の意向を示した後、日本ハムがドラフト1位指名

同じ花巻東の先輩には菊池雄星投手もいます。大谷選手は後年のインタビューで、高校時代に先輩と比較されることもあったと振り返っています。後に二人がともに海を渡ったことを思うと、当時の岩手の高校野球に目を向けたくなりますね。出典:Number Web・大谷選手の高校時代回想

甲子園出場は2回|初めての夏は2年生

大谷選手が甲子園に出場したのは、高校2年夏と3年春の2回です。侍ジャパンの紹介によれば、2年夏の大会では150キロを記録しました。当時の甲子園では高校2年生の最速タイ記録でした。出典:侍ジャパン公式・選手紹介

ここで押さえておきたいのは、甲子園で記録した150キロと、翌年の岩手大会で記録した160キロが別の記録だという点です。どちらも大きな話題になったため混同されがちですが、場所と時期を分けて覚えると分かりやすいでしょう。

初戦の帝京戦は7対8、途中からマウンドへ

侍ジャパン公式の振り返りでは、2011年夏の初戦は帝京との対戦でした。大谷選手は4回途中から登板し、5回3分の2を2失点に抑えましたが、チームは7対8で惜しくも敗れています。

当時は足の故障の影響もあり、普段どおりの投球ができる状態ではありませんでした。それでも150キロを記録した一方、チームとしては初戦で敗退。数字だけを見るのではなく、試合の状況も合わせて知りたいところです。

故障と向き合った2年冬

同じ公式記事によれば、秋も野手中心の出場が続き、冬は回復を目指しながら睡眠や食事、体づくりに時間を使っていました。バッテリーを組んだ佐々木隆貴さんは、復帰後に球威が増したと振り返っています。

一方で、食事量や練習方法をそのまま真似すれば同じ結果になるわけではありません。体の状態や成長段階は人それぞれです。本人の経過を知るエピソードとして受け止めましょう。

高校3年春は藤浪晋太郎投手と対戦

2012年春の選抜大会では、大阪桐蔭と対戦しました。相手の藤浪晋太郎投手も後にプロの舞台へ進むことになる注目選手です。大谷選手はこの試合で、藤浪投手から本塁打を放っています。

投手として比較される二人ですが、この場面は大谷選手が打者として存在感を見せた出来事でもあります。後の「二刀流」を知ってから試合を振り返ると、投げる力だけでは高校時代を語り切れないことが分かりますね。出典:侍ジャパン公式・甲子園での対戦

高校時代の160キロはいつ?岩手大会準決勝

2012年夏、大谷選手は岩手大会の準決勝で160キロを記録しました。侍ジャパンは、当時のアマチュア史上初の160キロとして紹介しています。

球場は甲子園ではなく、岩手大会の会場です。「甲子園で160キロを投げた」と覚えている人もいるかもしれませんが、高校2年夏の甲子園と高校3年夏の県大会は異なる試合です。

大谷選手は2012年1月の時点で、高校卒業までに160キロを投げることと全国制覇を目標に掲げていました。球速の目標が達成された一方、チームとしての目標には別の結果が待っていました。出典:日刊スポーツ・2012年1月の取材

最後の夏は県大会決勝で敗れた

花巻東は2012年7月26日の岩手大会決勝で盛岡大附と対戦し、3対5で敗れました。3年夏の甲子園には届かなかったのです。

大谷選手は後年、Numberの取材でその試合を振り返っています。160キロという数字の華やかさと、最後の夏に甲子園へ行けなかった悔しさは、同じ高校生活の中にありました。記録だけでなく、本人が振り返る試合の記憶にも目を向けたいところです。出典:Number Web・2012年夏の回想

高校時代の「目標達成シート」とは?

大谷選手の高校時代を調べると、「マンダラチャート」「目標達成シート」という言葉もよく出てきます。中心に目標を置き、その周囲に必要な要素や具体的な行動を書いて考える方法です。

マンダラチャート協会は、大谷選手が高校1年時に作成したシートの中心目標を「ドラフト1位・8球団から指名」と紹介しています。周囲にはスピード、コントロール、体づくり、メンタル、人間性、運などの項目が置かれていました。出典:マンダラチャート協会・花巻東高校の事例

目標は、それを書いた時点で必ず実現する約束ではありません。大きな目標に向かうために何を練習し、日々どんな行動を取るかを考える道具として見ると、スポーツ以外でも使い方を想像しやすいでしょう。

「運」の欄に行動を書く意味

協会の紹介では、運に関係する行動として挨拶やごみ拾い、部屋の掃除なども挙げられています。運を待つだけでなく、自分ができる日々の行動に落とし込む発想が特徴です。

ただし、シートだけが大谷選手の活躍を生んだと断定することはできません。練習や試合、指導者や仲間との経験など、多くの要素がある中で、目標を整理する一つの方法だったと考えたいですね。

高校卒業後はメジャー志望から日本ハムへ

2012年10月、大谷選手は高校卒業後にアメリカでプレーしたいという意向を表明しました。週刊ベースボールONLINEは、花巻東高校での記者会見でメジャー挑戦を正式に表明したと伝えています。出典:週刊ベースボールONLINE・2012年の会見

その後、日本ハムがドラフト1位で指名し、複数回の交渉を経て入団が決まりました。侍ジャパンの紹介では、投手と打者の両方を育てる「二刀流」プランが、入団の決め手になったとされています。

最初から日本の球団に進むと決めていたわけではなく、当初の希望を示したうえで、交渉を通じて進路が決まった。ここを押さえると、高校からプロへ進むまでの経緯を誤解せずに済みます。

大谷翔平の高校時代によくある疑問

甲子園には何回出場した?

花巻東で2度出場しました。高校2年夏と3年春で、3年夏は岩手大会決勝で敗れています。

高校で160キロを投げたのは甲子園?

2012年夏の岩手大会準決勝です。高校2年夏の甲子園では150キロを記録しています。

高校時代から投手と打者の両方をしていた?

花巻東時代から投打で活躍し、2012年春の選抜では藤浪投手から本塁打も放っています。プロ入り後の育成方針として日本ハムが二刀流を提案したことも、進路を考えるうえでの重要な点です。

まとめ|花巻東の3年間には記録と悔しさの両方があった

大谷翔平選手は花巻東高校で2度甲子園に出場し、3年夏の岩手大会では160キロを記録しました。一方、最後の夏は県大会決勝で敗れ、甲子園には届いていません。

目標を具体的な行動に分けて考え、メジャーへの希望も持ちながら進路を選んだ高校時代。記録だけでなく、その過程を知ると、プロ入り前の大谷選手の歩みがより立体的に見えてきます。

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